4月8日東日本大地震石巻炊き出し隊
4月8日東日本大地震石巻炊き出し隊 初日

宮城 石巻ボランティア炊き出し隊
メンバー
男性5名 女性1名
4月8日(金)
早朝6時 グランディアに4名、2tトラックに2名乗車で一路宮城へ向かいました。
グランディアには、一日300食の炊き出しを3日間続ける食材とガスバーナーやボンベ、
寸胴など機材が満載になっています。またトラックは現地から要望の強かった長靴を
100足購入し積み込んであります。

東北道は埼玉から栃木に入ってだいぶ進んだあたりから道路の亀裂がはじまり、
うねりもありました。福島にはいると瓦が落ちてブルーシートのかぶせてある
屋根がちらほら見えはじめ、地震の影響を感じ始めます。高速道は空いていて
自衛隊の復興支援トラックが頻繁に横を通り過ぎました。

私たちは仙台南インターを降りて仙台の物資集積場へYさんのバイクに先導
されながら進みました。Yさんは仙台市の集積場で仕分けをするボランティアを
されています。今回私たちの行動を聞いて、石巻に必要な物資を積みこまさせて
いただきました。Yさんご協力ありがとうございました。
トラックに大量の水ペットボトル、カセットコンロ100台、カセットボンベ多数、
ゴム手袋、衣類等必要な援助物資を満載に積んで、所々通行止めの道を迂回し
ながら石巻へ向かいました。

石巻中央公民館に2時過ぎに到着。佐光さんの友人であり、ここに避難生活
している畑山さんご夫婦が明るく私たちを出迎えてくれました。
避難所の人たちと話をすると皆さんとても親切で明るく、これから見る惨状を
知らなければ、本当に被災地ということを忘れてしまうようでした。

集積所で乗せた支援物資と、私たちが購入してきた長靴を配るという話が
いきわたって、みなさんどんどんでてき、思い思いに物資を取りに来ます。
2tトラック満載の物資も20分ほどで全て配り終えました。長靴を始め
今回の物資は、被災されている方から直接不足しているものを聞いて
持って行ったため、多くの方の要望に応えることが出来たようです。
皆さん本当に喜んでいただきました。
初日夕食の炊き出しのメニューは豚汁です。
普段この避難所では、朝おにぎり2個と菓子パンが配られ、それが一日分の
食事だそうです。暖かいおかずはボランティアの炊き出しだけで、1週間に
1回か2回口に入るかどうかだと聞いています。
調理は、4・5人の女性と中華料理店を営んでいたというおじいさんが
野菜刻みを手伝ってくれて、寸胴2本(大60L・小20L)で野菜と肉を
煮込みます。味付けは被災者のベテラン主婦にお願いすると、本当に
美味しい風味になり完成です。夕方5時間制を目標に作りましたが、
具材が多かったため、30分ほど予定オーバーで完成しました。
約300食の豚汁には長い行列ができて、御代わりも大人気です。
中央公民館の近くの民家でおそらく家では寝泊りができるけど食べ物などに
困っている住民の方が小鍋を片手に「分けてくれないか」とやって来ます。
豚汁には、豚肉・サトイモ・ジャガイモ・人参・大根・コンニャク・玉ねぎ
・ごぼうなど具材がたっぷり入っています。美味しい美味しいと喜んで
くださる被災され、家も流されてしまった皆さんの喜ぶ笑顔を見れて、
私たちもホッとしました。

4月9日 東日本震災 炊き出し隊 2日目

今日は部隊を2つに分けました。
石巻中央公民館での炊きだし隊2名と民家の泥出し隊その名もマッドバスターズに分かれて活動しました。
マッドバスターズの報告です。小雨の降る中、石巻専修大学内にあるボランティアセンターで受付をしバスに乗り込んで石巻市内へ向かいます。 ボランティアセンターもかなり混乱しており、週末は500人からのボランティアが駆けつけるようです。ボランティアの皆さんは専修大学内の指定された場所にテントを張り寝泊りすることが出来ます。また、仙台駅からこの専修大学へ毎朝シャトルバスが運行されております。もちろん帰り仙台駅へのシャトルバスも運行されます。

私たちは乳業と貸家を営む方のお宅で泥だらけになった家財と泥を運び出す作業を午後4時まで行った。ここのご家族はみんな無事だけど、津波が来たときお父さんは敷地内の電柱にしがみついて、水が引く夜10時まで6時間しがみついていたという。
人の良さそうなお父さんは地震依頼呆然としているらしく、救援物資であまっているという菓子パンをご馳走になる私たちに、本当は石巻名産のお鮨をご馳走したいくらいだと弱弱しい笑顔で労ってくださった。
泥は近くの日本製紙からの津波の影響で紙状になっていてそれが庭の土の上と家の中全てにべっとりと乗っかっている。水と泥を含んだ紙状のヘドロだから土の中の植物には酸素がいかないだろうに、ふきのとうが新しく芽を出していた。それにしてもこのヘドロの匂いは臭くてたまらない。家の中だけでなく、石巻市全体がヘドロのにおいで覆われている。私たちのこの一日の仕事で書き出されたヘドロの何万倍ものヘドロがまだいろんな家に残っていて、その全てをかき出す日はいったいいつになるのだろうと考えてしまった。
被災者の方はみなさん一様に明るく、地震当日の話もあっけらかんと「何にもなくなってしまって!」と話してくださるが、何かの折に、たとえばもう燃えてしまって二度と帰ってこない祖父の作った木工品や昔の写真などの話になると声を詰まらせる場面がたくさんあった。
一日の仕事を終えると、当然私たちの体や衣類は泥まみれになって、本当に臭い。でもこの一日が石巻復興の小さな一歩になったと少し実感しました。

炊き出し隊 昼食ホワイトシチュー
炊き出し隊は朝9時から黙々と野菜切で始まります。ニンジン、玉ねぎ、ジャガイモ、かぼちゃ60Lの寸胴が一杯になるくらいの量を刻んでゆきます。
今日は15kgの鶏肉と野菜を牛乳でじっくり煮込みます。予定通り11時30分から皆さんに配膳しました。
昨日に続いて本当に具をたくさん入れたので、皆さん本当に喜んでいただきました。美味しいおいしいと昨日より沢山の方がお御代わりに来てくださり、私達も来て良かったと心から実感しました。
シチューは被災後初めての炊き出しメニューのようで、喜んでいただき何よりです。
石巻中央公民館には、24時間体制で避難民の健康を守るボランティアナース「キャンナース」の皆さんも滞在されていました。写真は静岡県殻こられてるキャンナースの皆さんです。交通費から全て手弁当でこられている皆さんが、現地の医師と連携して、健康管理を行っています。聞くと、お風呂に入る時間も無いくらい忙しいとか・・・特別に大盛のシチューを差し入れさせていただきました。
炊き出し終了後、明日の炊き出し用に皆さんにお手伝いいただき野菜のカットをして、夕方業務終了となりました。

業務終了後炊き出し隊は石巻の被災地現場を視察に行ってまいりました。
その映像をご覧ください。

4月10日 東日本大震災炊き出し隊 3日目

3日目になるとこの多少疲れがたまってきたもののボランティア生活にもだいぶ慣れてきました。
今日も部隊を2つに分けます。1名が東松島コミュニティーセンターでクリームシチューの炊き出し。残りの5名で石巻市の牡鹿半島の先端鮎川浜へ長靴等の支援物資を配達し、帰りに女川方面を視察にゆきました。

石巻から牡鹿半島に向け進んでいくに連れて被害状況が地形によってまったく違うことがわかって来ます。石巻門脇町エリアは日和山裏側の街並みは家の外形を残して中を波が通過して瓦礫と大量の泥(家の中床上に約50センチの泥)が堆積しているが、海側の平地は見晴らしのいい場所なので、まさに波がごっそり何もかももっていった風に更地に近い状態になっている。渡波エリアは家の外形は残っているが中はもう全滅で家々の外壁にごみが大量に出されている。 

牡鹿半島に入ると大原地区は津波の影響をもろに受け、きれいさっぱり無くなっており、打ち上げられた大型漁船には「500円で売ります」と書かれていた。
またこのエリアは松島牡蠣の一大産地で、至る所に牡蠣の養殖いかだが見られたが、全てきれいに流されてしまっている。養殖関係者は「今回の津波は確かに大きな被害を出し、牡蠣も全て持ってかれたが、おかげで養殖する海の底もきれいに洗い流してくれたので、来年以降は今まで以上に良い牡蠣が生産できる」と話してくれた。

やはり震源地(牡鹿半島先端にある金華山沖)に近づくにつれ、津波だけでなく地震の影響が道路の亀裂等に色濃く現れている。突然段差が現れたり、道の半分が崩落していたり、運転も気が抜けない。
牡鹿半島先端の街鮎川浜地区は、昔鯨の捕鯨基地として栄えた町で、近くの金華山近辺は豊かな漁場としても有名なところです。ほとんどの方が何かしら漁業関連の仕事に従事しています。地震直後津波を警戒して漁船を沖へ避難させようと港を出た猟師の方は、「一気に海水が沖に引かれ、金華山と牡鹿半島の一番浅いところを歩いて渡れるほど海水が引いた」と言っていました。
またある女性は「津波は台風の波と違い20メートルほどの波の向こうがそのまま海面の高さになっている」「それが押し寄せると、下半分が家を壊した土埃の黄土色の層になり、上半分が海水と白い泡の層になって押し寄せて来る」と話していました。その津波が鮎川浜も飲み込んで行ったのです。
鮎川の避難所にいる知り合いの方を通しての長靴の提供をしました。ここでも皆さん明るく迎えてくださり「これ欲しかったんだっちゃ」と喜んでくださりました。
また地元出身のシェフが東京からボランティア調理師として来ているとのことで、ご馳走させていただいた昼食は美味でした。避難所ごとに食事の質は本当にまちまち。港町で普段から新鮮な海鮮類や温かい田舎料理を食べていた人たちにしてみれば、食事の質は大きな問題だと思わざるを得ませんが、ここは津波が届かなかった奥の畑から野菜を取ってきたり、自衛隊からの至急品をうまく使い美味しい料理を作っているようです。また掃除や、調理などもグループに分けて分担し、元気に避難生活を送ったらっしゃいました。
力は口から。 この避難所での磯汁をいただきながら、体が心から温まるものを食べることが必要だと思わされました。
震源地近くはさすがに浜での津波の影響ばかりでなく山の上でも大地震の爪あとはアスファルトの断絶で色濃く残っています。
高台からの眺めは天気もよく風もさわやかで、ここが震災被害の場所でなければどんなにか風光明媚な場所だろうと思わされまう。

鮎川浜からの帰り道、牡鹿半島の北側野々浜から女川にかけて避難所をいくつか回り、足りない物資を御用聞きのように聞いて回りました。避難所は本当にいくつもあって、小さなところは10名ほどの場所もあります。そこでは「こんなに小さいから忘れられてるんだ、何も物資が来ない」と言うところもあり、物資は慢性的に不足している様子です。特に新鮮な野菜が不足しており、至急届けて欲しいとの声が大でした。

私たちは女川に入りました。石巻で受けた衝撃を数倍上回る衝撃を感じました。近海の秋刀魚漁などが有名な女川です。水産加工会社や、市場が港の周りを囲んでおり、活気に満ちた街は全て流され何もありません。港から500m程の所に高台があります。20m程の高台ですが、その上に女川町立病院があります。津波はその高台を登り病院の1階や、駐車場の車を流してゆきました。この高台に非難して駐車場で津波の様子を見ていた多くの方が流されたと言います。

女川市役所では多くの職員の方が津波の被害に備えて待機していたそうです。その方全員が流されてしまいました。5階建ての市役所は完全に津波に飲み込まれています。市内至る所で、自衛隊の皆さんが遺体の捜索を震災後1ヶ月たとうとしている現在でも続けております。
石巻では被災を逃れたいくつかのコンビニや、スパーマーケットがオープンしています。しかし女川ではそのコンビニやスーパーの全てが流されたため、食材を買う手段がありません。
私たちは来週4月15日から17日までこの女川に炊き出しに入ることを決めました。

東松島コミュニティーセンター 炊き出し隊 クリームシチュー
ここには240名の方が避難しておられます。東松島市は、航空自衛隊松島基地があり、ブルーインパルスのベース基地として有名な場所です。
私たちは一度幹線道路の45号線を通りましたが、被害は甚大です。海岸から4キロから6キロ地点まで津波が入ってきました。田んぼが多い地区生田目、障害物がなかったことも影響しているのかもしれません。多くの被災者が家を失ったようです。
今日は昨日仕込が終わっていたので、火を入れて煮込むだけの作業です。しかし風が強かったため、なかなか火が入らず30分遅れで炊き出しを始めました。
皆さん野菜たっぷりのクリームシチューに大喜びいただき、何度もお代わりする人もいらっしゃいました。喜んでいただき、やったと感じました。
ここには10組の子供連れの家族がいらっしゃいます。しかし残念ながらガスコンロも調理器具もなく毎日冷たい食事だけのようです。明日何とかしようと作戦をたて本日の作業終了です。

4月11日 東日本大震災炊き出し隊 4日目 最終日

ボランティア最終日
朝全員で石巻専修大学(石巻災害復興支援協議会)へ昨日女川方面の避難所で御用聞きした物資を調達に行きました。ここは宮城県でも有数の集積所で、新鮮な野菜など沢山あります。事情を話したところ、喜んで分けてくださることとなりました。早速グランビアに野菜、缶詰、野菜ジュース、などをギュウギュウ詰めにし出発です。グランビアは荷物を積むため5名乗りに改造してあるので、若者2名はこの集積場のお手伝いに残りました。
途中石巻中央公民館で畑山さんを乗せて女川へ。畑山さんは女川生まれの女川育ちです。彼女の実家も跡形もなく流されたそうですが、被災後まだ一度も女川に行って無いのでぜひ連れて行って欲しいとのリクエストでした。
石巻市から、万石浦を通り女川に入ります。女川の全景が見渡せるところから、畑山さんの涙と嗚咽が止まらなくなりました。「ここは知り合いの家があったところ。ここは同級生の家が・・・。市役所も滅茶苦茶だっちゃ。駅が跡形も無くなってる」生まれ育った街がなくなってしまったショックに彼女の涙は止まりませんでした。女川総合体育館の避難所に畑山さんの友達が避難しています。そこに畑山さんとSが残り、避難所のかたがたの様子を伺い、他3名は奥地の避難所で御用聞きした希望の品を届ける作業に向かいます

女川の避難所の畑山さんの同級生の話では、津波のときに女川の平地から避難するときに現在の避難所方向に車で登っていった人たちは渋滞に巻き込まれて津波に飲まれてしまった人が多く、彼女たちは反対の山の方面(この地域の水源地がある方面)に逃げて、そちらは空いていたので助かったとのことです。ちょっとした運が命を左右したと感じました。
高台から津波を眺めるときは呆然とただ見ているだけで、恐怖心はまったくなかったそうです。そんな話をしているときは「怖かったねー」と体験を共有するように話されますが「昨日の夜はまた大きな地震がありましたが、眠れましたか?」と聞くと中の一人がそれまでとは違う表情で「昨日は姉の土葬があったから・・疲れて寝てた」と教えてくれました。 返す言葉に詰まってしまいました。 その女性が避難所の体育館から見えるグランドに着地したヘリコプターを指して、「毎日海から遺体が上がって、その倉庫に収容されるんだ。最近は白骨化して、目がなかったり、もう誰だかわがんなくて」 と説明してくれるが、人の大きさにくるまれた2体のブルーシートに初めてとも言えるリアルさが伝わってきて、思わず戦争を思い浮かべてしまいました。
畑山さんが「中のおばちゃん」と呼んでいる方に、自分のお父さんが製作した木工品を出して「これだけ、泥の中からでてきたからもらって」と差し出しています。それは一見光沢のある普通の木の板で、家に残っていれば瓦礫と一緒に処分されてしまったかもしれません。復興は瓦礫の撤去と同義では決してないと感じました。
畑山さんの親族も避難していて、従兄弟の男性は絵が好きということで、崩れた家からたった一枚大好きなリトグラフを見つけて持ってきていました。避難所で配布された週刊文春の表紙を模写したスケッチブックが飾ってあって、「暇だからさ」と照れくさそうに見せてくれました。避難所での娯楽・文化の必要性を知らされました。その男性が「中国人が盗難を働いているという話も、中国人研修生を利益のために使って、こんな避難生活になったときに温かく見てないから、言葉も通じなくて必要なものを盗んでしまうのは仕方ない部分もあるんだよ」と力説していました。当事者の言葉だけに説得力を感じました。
また他の方の武勇伝では「家の屋根に乗って津波の引き潮に流され、防波堤が滝状になっているところで「もうだめだ!」と思ったけどその屋根が滝の上で浮上して滝下の海面に着地したため運よく助かった」と言う強運の男性の話も聞きました。
多くの方が亡くなり、生き残った方も長年住みなれた自宅や、街の全てを失ってしまった悲しみは計り知れないものだと感じました。私たちに何が出来るのか・・・何かしなくてはと心の中で感じました。

女川奥地避難所への物資配達組み
畑山山とSを800人が避難する女川総合運動場に降ろし、私たちは牡鹿半島北面の奥地の避難所へと物資を届けに車を走らせました。
まず240名が避難する海鮮閣へ。ここでは小学生高学年から中学生用の衣類と靴を求められていました。その物資と、新鮮な野菜、缶詰、野菜ジュース、お茶の葉などをお渡ししました。ここも入り江にあるいくつもの小さな漁港は全て家が流され、漁船もそのほとんどが持って行かれたと言います。
ここは奥地のためあまり炊き出しも入っておらず、自衛隊の支援に頼っている模様でした。私たちは4月15日から17日までこの海鮮閣に炊き出しに入ります。
ここから野々浜まで2つの小さな避難所に物資を届けましたが、いずれも手の厚い支援は受けていないようで、サンタクロースのような扱いを私たちは受けました。
ある避難所では「復興した暁にはぜひ旨い魚を食べにやってきてくれ」と言われ、私達も目頭が熱くなりました。
一日も早い復興を祈っておりますし、私達もそのお力になれればと心から思いました。

女川から石巻に戻った私たちは、東松山コミセンの子供連れ家族へ支援物資を届けるべく、またまた石巻災害復興支援協会のテントへやってきました。カセットコンロや、調理器具一式と、野菜中心の食材を満載しお届けにあがりました。調理器具の中には、新学期に持ってゆくお弁当箱なども入っていて、大喜びされました。良かった良かった・・・

夕方5時ころ東松山市のガソリンスタンドで帰り支度していると車がグラグラと揺れました。4月11日震災から1ヵ月後の大地震です。周りに居る多くの方も騒然としており、建物から全員出てきます。まだまだ地震は続いています。
この影響で三陸自動車道や、東北自動車道が通行止めになり、私たちは翌日12日の朝にやっと埼玉に戻ってきました。

 

 

 


 

2012/09/22更新  

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